・lunaさんの芝居帳(4)● #2 労M その後の一考察 ● 2006 年7月TV「僕らの音楽」に松尾スズキさんが出演していた。 くるり(音楽グループ・京都出身)のリーダーとの対談。 少し驚いた。 登場からの立ち振る舞いが自然に大人だ普通だった。 普通ってなにさ?(苦笑) 私にとっては、存在自体が不思議と可笑しく、味のある人だと思っていた。 そりゃ脚本書いたり、演出したりしているのだから、大人であることは当たり前の当たり前で、 あらためて言うと、松尾さんに大変失礼な物言いになってしまう。 あれは板の上の、映像の中の演技なんだと判る。(この反応コドモです) 対談の中で、「笑われるのではなく笑わす」ことが大事だと小学生の時に気がついたと話していた。 堤さんが「笑い」に今拘っているインタビューが浮んだ。 労働者M。 堤さんは一生懸命笑わそうと演じている。(特に牧田君) 松尾さんの自然に触発される笑いは、演技とは言い難いが演じているのである。 「笑わす」から相手(観客)が自然と「笑える」へ。 一歩も二歩も前を行っている。自覚が小学生からだもん。キャリアが違う。納得! 私はケラリーノさんの芝居が苦手である。 気になる役者さんを目当てに観劇をすると私にはかなりキテレツに見えて意気消沈する。 しかし、「せりふの時代」の連載を読んでかなり苦手度が和らいだ。 「笑いにおける演出の復権」 自身が笑いと感じる台本は一般的に可笑しいものなのかという「世間一般」とのズレへの疑い、 演出「台詞の立て方」について、喜劇役者は理屈ではなく鍛えられた感覚で自己演出しているエピソードがいくらも存在すること。 笑いとは大爆笑だけが笑いではない、ニヤニヤもクックックもウッシッシも笑いであり、 どんな笑い方であろうと笑いで満たされた劇場はアリだという。それが真に豊かな笑いの文化だという。 その為に、 観客からとる笑いは大きければ大きいほどよいと考える 笑いに慣れていない役者に「そうじゃないんだよ」とやさしく説得、 納得し不安を払拭するコントロール能力のある演出家と、 その演出家に不安を抱かせない台本を書く作家が必要であると書いている。 そして、 時間はかかるであろうが…という但し書きをつけて「観客の育成」も必要事項としている。 その為には理想的なモノを観客に見せ続けることだと締め括っている。 ここにケラさんの理想とする笑いは、脚本家、演出家、役者、観客の4者が創る総合芸術を目指していることを知る。 観客は決して受動ではない、創作の一部を担っている。 そして私は2006年2月に彼 (彼とはどっちだ!) の喜劇を観に行った。 理由は後述しているが、いま私は労MのDVDを乍見をする、いや乍聞きをする。 イヤ ながら聞きが出来るDVDである。家事をしながら音を流している。 さて、タイトルロールの次の場面 「だから何て言うんだろう、一言に善意といってもさ、違うわけじゃない人それぞれさ」「 それそれそうなんだよさ」…「解り方が違うんだよ」「解り方?」「まあイイけど…」… ウナギの骨でハタと手が止まる。 突然の「ハッハッハッ」「なんだよ」「まだ取れないの?」「ウナギ」「えっ!」 「昨夜から喉に刺さってんだって」「ウナギがぁ~?」 「ウナギは刺さんねぇよ、森さんよく考えろ」「ウナギは刺さんねぇよ、柔らけいもの後でけいもの」 「ああ骨だろウナギの」「何してやったりみたいな、今解ったんでしょ!」「今じゃないよ」 日常生活で意に添わない人と言葉を省略しても会話が成立する場合がある。 これも共通事項、日常の欠損のひとつと気がつく。 描かれる二つの世界でキョンキョンとイヌ子さんは、リーダーに心酔する女と其れを逆撫でする女を立場を替えて演じている。 表裏一体、ダブル主演女優だったんだぁ。 じゃぁダブル主演男優の役柄の関係は? どちらも他力で人を死に至らしめた陰湿な男と現状に疑問を感じながらも対応できず逃避する男。 ひとりは志を持って、もうひとりは己に勝てない精神の持ち主。 自身のコスモポリタンな思想と現状の落差に鬱積を抱える松尾さん演じるランプは、独立した役柄であるけれど、 もう一方の世界の病的な黛さんに通じる何かを感じる。 しかし、ゼリグと牧田に同人物が演じる表裏の存在を感じるだろうか。 そこにいろいろな役を演じ分けられる役者堤真一の限界とは言わないが枷を感じる。 ゼリグも動物園襲撃で象に踏まれた小学生を死に至らしめているグループのリーダー。見方によっては陰湿だ。 ひとつの思想も他人に無理やり介入し始めたなら病的な精神状態だ。 人々に支持されて初めて志と云える。収容所で誰からもシンパシーを感じてもらえないゼリグ。 思考の行き違いで死んでいった父を持ちながら、 異意思を持つ同胞を手に掛けたゼリグと別世界の牧田君に我等は何を感じるのか。 松尾さんに感じる2役の関係性を堤さんの2役に感じることが出来るだろうか。 ハダハダ感アリ。存在を消せる役者は別者を演じ分けた。 馴染むケラファミリーと 小学生で笑いに目覚めたもう一人の主演者(松尾スズキ)の中で、 浮遊するゼリグと牧田と堤。 耳だけの喜劇にすると、 結構ゼリグくんは牧田君は堤クンは、ケラさんに攻められています。 ゼリグは、蜷川さんであり将門であり そこで息衝く堤を攻める。 牧田くんは、(将門のメイキングで俳優陣が評する)精神年齢小1の彼を攻める。 小1の西宮のボクちゃんを東京育ちのケラさんは攻める。 本人(堤)は同じ処で演じている(生きている)のかもしれないが、 「タンゴ」と「労M」を観ると「タンゴ」を指してしまう私、役者としてキツイ役柄を支持してしまう私が居る。 タンゴを知った今、労Mに拘るワタシに私は納得する。 まだ半ドンだった土曜日、 小学校から帰宅TV「よしもと新喜劇」を昼過ぎに見る習慣は、関西の児童の正統な姿だった。 初めはTVの前に正座ではない。 「ほんわかほんわか・ほんわかほんわか・ほんわかほんわか・わかかか~♪」と トランペットの曲が流れれば今も血が騒ぐが、 当時はおやつを食べながら、宿題をしながら、etc. 「ながら見」である。 その「ながら見」からTVに引き付けられるのである。 ナンセンスな芝居、脈絡のないギャグもこっけいな動きも、 微妙な笑いから腹が捩れんばかりの笑いまで我等ガキ共には娯楽そのものであった。 関西育ちの暗黙の共通事項、少年少女が「笑い」を求めるときの下地はすべて此処にある。 幼児の頃からDNAに組み込まれていく。「よしもとへ行け!」は「お前はオモロイ」という讃辞だった。(今もかなぁ) 昨夏CALPIS FROZEN TYPE を見つけた。 うたい文句は「凍らせるおいしいカルピス」。 いろんな濃さが体験できる お気に入りの濃さで一気に飲めるタイプとみた。 日本人ならば暗黙の共通事項として日常の欠損に出来たことを、 世代が違えば敢て口にしなければならないこの時代、 「俺はこれだ!」より「お好きな味で楽しんでぇ」の芝居が増えてきた、まさしくFROZEN TYPE。 タンゴ同様、「俺の芝居(笑い)はコレだ!」という「真ちゃん喜劇」がいつか観られるのだろうか。 確定された映像で一歩先に、 東北生れの天才クドカンと広島生れのぼくの魔法使い水田監督と、 (松尾スズキ氏主催劇団)大人計画の一員阿部サダヲchanに触発され「堤はオモロイ」は生まれるのだろうか。 舞台は防戦一方な労M。 関西の「コドモ大人」は目が肥えてるからなぁ、あんたのアタフタ感見抜くえ、舞台はハードル高いよ堤さん! |